One of TAMBOURINES

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意思と選択

e0105130_9411767.jpg女がまず食べた。
蛇の惑わしに乗せられて。
男は、その女からもらって
同じく食べた。

ふたりは直ちに死んだのか?
いいえ。
ふたりの目は開かれ
彼らは自分たちが裸であることに気付き、イチジクの葉で腰をおおった。
羞恥心のはじまりであった。

では、神のことばは単なる脅しだったのか。
蛇の言うように、人が神のように賢くなるのを
防ぐための。

「死」とは分離を意味する。
私が死ぬなら、たとえ血を分けた我が子であっても
この世での再会の道は断たれる。
この世における完全な分離である。
同じように、「食べるそのとき、あなたは必ず死ぬ」とは
神からの完全な分離、を言う。

最初の人アダムとエバは
神への不従順の結果として
それまでの神との親密な関係を
完全に断たれてしまった。
しかし、
それは彼ら自身の意思と選択によるのものだった。
確かに蛇は惑わしたが、
強いたわけではなかった。
彼らに選択の余地は、十分すぎるくらいにあった。
神からの明確な警告。
満たされていた食欲。
満たされていた住環境。

私たちには、自由意志が与えられている。
何を選択しても自由である。
しかし、それに伴う結果まで
自分で選択することはできない。
なぜなら、人は蒔いたものは
必ず刈り取らなければならないのだから。

「罪から来る報酬は死です。」(ローマ人への手紙6:23)

(Kayoko)
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by tmbrs-3 | 2007-04-28 01:34

it was very good

いつから
一体いつから、こんなことになってしまったのだろう。
聖書が語るように、人が本当に神に似せて創られたのなら
なぜ、人は神に対し罪を犯し
神の存在すら判らないまでになってしまったのだろう。

神は最初の人アダムを創造されたのち
すべての被造物をこのようにご覧になった。

「見よ。それは非常によかった。」(創世記1:31)

神はこの世界を、すべての生き物を
非常に良いものとして
中でも人を、ご自身の最高傑作として
お創りになったのだ。

その後、神は東の方エデンの園に人を置かれた。
豊かな水源、肥沃な土地
見るにも食べるにも良い木の生えているところ。
神はその土地の管理を人に任せられた。
どの木からも思いのまま取って食べてよい
ただし、「善悪の知識の木」以外は。
それを食べる時必ず死ぬ
と、仰せられて。

日々、精出す仕事が与えられ
必要の一切も満たされ
いつも神と共に生きる日々だった。
e0105130_9302171.jpg
神の警告を無視し、
蛇(サタン)の惑わしに負けてしまうまでは。

(kayoko)
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by tmbrs-3 | 2007-04-17 21:20

十字架 Ⅱ

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神の子キリストに、身代わりになって
刑を受けてもらわなければならないほど
私は重罪を犯したのか。

聖書の言う「罪」とは何か。
いわゆる「犯罪」のみならず
法に触れずとも、あらゆる悪しき行為、
外からは見えずとも、心の中のありとあらゆる
悪しき思いを言う。
そればかりでなく、神の前に罪とは
神を神としない、信じない、従わないことである。

なぜならば、人は神の被造物であるから。
空を見上げるとき、自然に目をやるとき
そのすばらしさに心を動かされることがある。
神は、しかし、それらの被造物の中でも
人だけを、とりわけ特別なものとしてお創りになった。

「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。」
(創世記1:27)

なんと、人は神に似せて創られたと言う。
どれほどの御思いをもって
この私を創られたのだろう。
その創られた私が、創造主を認めず、感謝もせず、
みこころを無視して生きていたとするなら・・・。

(kayoko)
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by tmbrs-3 | 2007-04-09 00:09

十字架 Ⅰ

アクセサリーとしては、不動の人気を獲得しているもののひとつ。
カトリックのシスターから、ロックスターに至るまで
実に幅広い層に支持されている比類なきデザインとも言える。
しかし、よーく考えてみていただきたい。
十字架とは、要するに「死刑の道具」ではないか。
電気椅子や首吊り台を、耳に、首に、ぶら下げているようなものだ。
そんな人はいない。
では何故、十字架だけがここまで
人々に愛されるものとなり得たのだろうか。

今週は「受難週」(キリストの受難を覚える一週間)であった。
キリストが、この地上での「人の子」としての生涯を閉じたのが
この十字架上であった。e0105130_23282751.jpg
当時、最も重い犯罪人に処せられる
最も残酷な刑である。
両手両足を、木に釘で打ち付けられ
長時間にわたり苦しみもだえ
ひと思いに死ぬことを許されない。

キリストは罪を犯したことがなかった。
神のひとり子であるゆえ
犯すはずもなかった。
にもかかわらず、である。
地上最大、史上最大の「理不尽」である。
しかし、これこそが、聖書の神の
私たちひとりひとりへの
最大の愛の現れなのだ。


「しかし、彼は(キリスト)、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめがわたしたちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの、自分勝手な道に向かって行った。
 しかし、主は、私たちすべての咎を
 彼に追わせた。」    (イザヤ書53:4-6)


(Kayoko)
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by tmbrs-3 | 2007-04-07 22:24

タンバリンズのVocalから


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